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吉田町の唄  神山典士/週刊アエラ(朝日新聞社) :: 1992/06/30(Tue)

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今年7月に発売になる通算31枚目のアルバムのジャケットには、拓郎自身の幼年時代の写真が使われる。一つの曲が、自分をどこかに強烈に引っ張ろうとしている。そんな感じがして仕方がないという吉田拓郎。今年4月で46歳になった。70年のデビュー以来、22回目の夏を迎えることになる。
この20年間、ボクにとって彼は強烈な「王」だった。だから取材に当たった約一カ月半は、ボクにとっては「王」を探す日々だったといってもいい。たとえば3月27日。日本武道館のステージで、デビュー20周年の喜びを圧倒的な歌声で表現したのは井上陽水だった。20年前の唄に、新しい命が吹き込まれていく。5月15日。東京ドームの天井に、くっきりと自分のシルエットを映したのは長渕剛だった。65,000人という大観衆の前で、彼はギター一本で自分を表現した。
4月30日。池袋駅地下の異様な混雑も、ボクは忘れることができない。学生服の少女たちの無言の群れ。尾崎豊の葬儀の行列だと気づくのに、そんなに時間はかからなかった。どのシーンにも「王」はいた。けれどそれは、ボクの「王」ではなかった。ボクの「王」はここ数年、残念ながらこうした大舞台からは遠ざかっている。「王」はどこへ行ったのか。見つかるはずがなかった。ちょうどその頃ボクの「王」は、レコーディングの後の沖縄でのバカンスを終え、30数年ぶりの鹿児島の町を、妻と二人で歩いていたのだから。


「吉田町の唄」を作った後、ビデオでフィールド・オブ・ドリームスを観たんだ。そしたら最後のところで涙が止まらなくなってねえ。オレおやじにも親父からの声がないのかなって、その時思ったんだ」。
拓郎が「吉田町の唄」の中で歌ったのは、幼年時代を過ごした鹿児島の風景だった。父がいて母がいて、優しい兄と姉と祖母に囲まれた温かい暮らし。吉田家の家族六人が揃って団欒したのは、1946年に拓郎が生まれてから小学校三年に上がるまで。それ以降、母朝子は子供たちを連れて広島の実家に帰り、父正広は鹿児島に残り農業のかたわら「鹿児島県民年史」の編纂に当たることになる。拓郎が父と会うのは、年に一度あるかないかだったという。
その父の面影を訪ねて、拓郎は鹿児島の町を歩き回った。父の仕事場だった県庁や図書館を回り、家族団欒の場だった家の跡を訪ねた。「このあたりに大きな木がありませんでしたか、三十年前の記憶なんですが」「わかりませんねえ、私たち十年前に越してきたんですから」家のあった場所には、真っ白なマンションが建っていた。唯一残っていたのは、「夏休み」の舞台となった谷山小学校だけだった。丸二日間の滞在中はほとんど曇天だったが、一瞬、晴れ間が覗く瞬間があった。桜島が見えた。「ああ、あれが親父が好きだった山なんだ……」。「結局、親父の言葉なんかありませんでしたよ。でもまあ、三十年ぶりの墓参りだと思えばいいかなと思って。それにしても、年齢っていうのは面白いことをさせるなあ」誰よりも、拓郎自身がこの行動に驚いている。

拓郎が「王」として最後に大観衆の前に立ったのは、1985年に静岡県つま恋で行われたONE LAST NIGHT in つま恋)だった。1975年のつま恋、1979年の篠島に続く三回目の大コンサート。39歳の時だ。「拓郎さんはきっと40年間で、何百年も生きた感覚があるんじゃないかしら」雑誌の対談記事の中で、阿木耀子が語っていた。阿木の言葉を検証するならば、デビューから五、六年間の拓郎の足跡を追うだけでも十分だろう。

1971中津川フォークジャンボリーでの「人間なんて」2時間の熱唱。ユイ音楽工房を後藤由多加らと設立。1972年「結婚しようよ」50万枚。「旅の宿」60万枚、チャート一位獲得。CBSソニー移籍後初のアルバム「元気です」12週連続チャート一位。紅白歌合戦出場辞退。1974年「襟裳岬」でレコード大賞獲得(唄/森進一)。1975年6月フォーライフ・レコード設立。8月つま恋コンサート、。デビュー当初月給三万五千円だったのが、この時点で年収約八千万円に跳ね上がっている。この間、1972年の結婚と1973年5月の婦女暴行容疑での逮捕(不起訴)。そしてラジオ深夜放送のオールナイト・ニッポンで自ら発表した1975年の離婚というプライベートな出来事も、これに加わってくる。フォーク界のプリンスと持ち上げられたかと思うと、次の瞬間には、やっぱりやったか!拓郎と落とされる。忙しい人生だ。1977年からはフォーライフの社長を務め(~1982年)、二度目の結婚、そして離婚。1979年あたりから「もうボクには何もやることがないような気がする」という言葉が語られるようになったのも、自然の流れのように思える。言葉通り、最後のけじめのつもりで行った1985年のつま恋直後には、きっぱりと「すべてに飽きた、終わりだ」といって、人前から姿を消した。それから二年間、拓郎は月二回のラジオ収録以外、ほとんど家を出ないような暮らしに入っていく。

復帰は1988年の正月。女優、森下愛子との三度目の結婚の直後だった。私生活では、安らぎを得ていたはずだ。けれどこの時期、スタジオにミュージシャンを集めておきながら、ついに曲ができないこともあったという。創作活動となると、迷い悩み、憂鰺さを漂わせていた感は否めない。当時、こんなコメントが残っている。「ミック・ジャガーを例にあげて、彼も40だっていうじゃない。そんなの説得力を持たないよ。あいつら世界を相手にしてる。俺、日本だもん。おニャン子と闘わなきゃなんないんだぜ」。
1989年、アルバム「ひまわり」の発表直後には、冗談混じりながらこんな言葉も聞かれた。タイトルの由来を聞かれて、「いや、意味なんてないんだ。コンピューターに打ち込む時にファイル名がいるのね。それでヒマな時に曲を作ったからヒマ1、ヒマ2と入れてたわけ。で、最後にタイトルがつかない曲があってヒマ、ヒマと言ってたら『ひまわり』になったんだ」

今回の取材で出会った「旅の宿」等の作詞家、岡本おさみの言葉を重ねると、その憂鬱さは際立ってくる。「デビュー直後は、大学ノート一杯に詩を書きなぐって、ノートが埋まると拓郎に郵送したんです。次の日にいきなりステージで歌われることもあったし、2、3年後に曲がつくものもあった。その日の気分で次から次へと曲が溢れてきたというのかな」。拓郎が休眠していた1986年当時、もはやフォーライフにもユイにも拓郎の担当者はいなかった。デビュー以来15年間で築いてきた“財産”はすべて白紙にしたいという拓郎の思いが強かったから、それは当然の事ともいえた。「ユイもフォーライフも、もう辞めだ」。そう公言してはばからなかった。そんな中で、二回のラジオ収録のチャンスを逃さないようにスタジオに足を運び「拓郎さん、そろそろ歌いましょうよ」と声を掛け続けていたのは、当時フォーライフの宣伝課長、宇田川幸信だった。「後藤、歌いたくなったから、宇田川をオレにくれ」ある日、フォーライフ社長室の後藤に拓郎から電話が入った。前後して宇田川も駆け込んできた。「社長、拓郎さんがオレに会社を辞めろと言ってるんですが……」後藤の答えは明快だった。ユイの社長でもフォーライフの社長でもなく、「オレは拓郎の友人だから、拓郎に歌ってほしいんだ。拓郎に歌う気が起きるなら、宇田川、行ってくれ」。約一カ月後、宇田川は後藤に辞表を出す。「その代わり、フォーライフからの出向とかユイの子会社では嫌です。ぼくが事務所を作って、拓郎さんはそこと契約してもらいます」それまでのすべてを白紙にして、新しいスタートを切りたい拓郎の思いを忠実に実行に移した時、宇田川にはこれ以外の答えは見つからなかった。

拓郎が望んだのは、42歳にして真っ白な「再」デビューだった。ところが、再び世間に顔を出してからニ人は気づくことになる。世間は白紙になっていなかった。だがら、ボクが感じた拓郎の憂鬱は、一つはそのギャップに起因していたといってもいいだろう。「昨夜も昔の音楽仲間と呑んでいたんだけど、明け方近くになってぼくが激高しちゃってね。あんまり昔はよかったよかったと言うもんだからサ」今回の取材の初めてのインタビューの時、拓郎は宿酔が抜けないといって照れ臭そうに笑ってみせた。いつしか話題が尾崎豊のことになった。再デビュー当時に感じた憂鬱さは、二十代の尾崎が背負っていたものと同じようなプレッシャーから来るものだったのだろうか。「二十代の頃には全然感じなかったけれど、四十代を迎えた頃には、確かに周りから言われたり聞かれたりすることがプレッシャーになっている時代はあったと思いますよ。憂鬱さネ……。確かにあったような気がしますね」少し言葉遣いが丁寧になった。「でも、ぼくが宇田川君と組んだのは、音楽にピュアに付き合えると思ったからですから。70年代80年代のスタンスから解き放たれた状況ができるなら、あと10年20年とやっていけるかなと思ったんだから……。今その状況が完壁にできているとは言えないけれど、あっけらかんと歌を唄って曲を作っていきたいと思ってますよ。ボクが拓郎にインタビューをしている頃、宇田川はパリから東京に向かう飛行機の中にいた。鹿児島から戻った拓郎の言葉を伝える事務所からの国際電話を受けて、急遽旅を中断して帰国しなければならなかった。

「拓郎さんが夏のコンサートは予定を変更してギター一本でやると言っています。押さえてある会場も変更してくれと言っていますが」夏のツアーは六大都市の大ホールで二日間ずつ行われる予定だった。もちろんバックバンドもつけて、初日は古い歌、二日目は新しい歌、そんな構成で行こうと会場も決まっていた。「鹿児島に行ったら、お袋の遺言を思い出してさ。7年前にお袋が死んだ時、ぼくの親友の枕元に立ったっていうんだよ。“いつかギター一本のコンサートが聴きたかった”って。今、それをやる時だって鹿児島で思ったんだ。そういう流れなんだから……」この拓郎の言葉で、すでに約千五百万円集まっていた後援会員からの予約金の払い戻しが始まった。会場も千人規模の所を、全国で二十カ所新たに確保しなければならない。当然、金もかかる。事務所としては痛くないはずがない。けれど宇田川は、拓郎の歌への対峙の仕方を知っているから、それはしかたないことだと思っている。かつてあるパーティーで、浜田省吾が拓郎に笑いながら言ったという。「拓郎さんのステージを観ると勉強になります。今何を歌っちゃいけないかがわかるから」吉田の答えはこうだった。「何とでも言え。オレはこのまま居続けてやるからな」「ぼくはねえ、毎日毎日が新しいんですよ。だって46歳になってツアーをやって毎年一枚アルバムを作ってる人なんて過去にいないんだから。今は一日一日長くやることに大きな意味があるように思えてね」

拓郎は、長渕のドームでのコンサートのことも知らなかった。「へえ、そんなコンサートやったんですか。知らなかったです。次の世代の人たちは、もっともっとやればいいんですよ。ぼくたちのフォークという時代があって、その土台があったから今の若者たちが音楽をやっているんだから。そういう伝承はめちゃくちゃ素晴らしい。尾崎君は亡くなったけれどまた若いモンが出てくるわけだから」たとえばアーティストとして作品の権利を守るために音楽出版会社を設立すること。TVや雑誌に振り回されないでコンサートを中心にプロモートしていくこと。各地の興行主に中間搾取をさせないで産地直送でコンサートを開くこと。伝承されていることは、いくつもある。「結果として見れば、ぼくはいつも先頭にいたんです」。強靭なプライドだ。「でもね、今度飽きたらいけないと思ってるんです。50歳を前に今度飽きたら、それは終わりだから……」沖縄から鹿児島へ向かう飛行機の中でのこと。拓郎は宿酔で真っ青な顔をしていたという。鹿児島上空に差しかかると、気流が乱れ最悪の状態だった。すると一人の若いスチュワーデスがやって来て、拓郎の耳元でこう曝いた。「拓郎さん、沖縄からの風です。“シンシア”が聞こえてきませんか?」。

ところで吉田町である。今年三月の町議会は、史上初めて予算案に修正動議が出された。動議の中心は、今年も「若者共和国」に3500万円の予算を計上したことへの反対意見だった。共和国のメンバーが傍聴する中、星野町長は答弁に立った。「日本は今、物から心の時代に移っております。次代の青年の育成は、大人の務めであります。去年は大成功でした。今年も若者共和国の事業が成功することを祈っております」採決は十二対九。今年も8月15日にイベントが開かれ、「吉田町の唄」が歌われることになった。ここにも「王」がいる。「王」から「王」へ唄は引き継がれ、やがて、一人で、歩き出す。
  1. 拓郎ノート