みねやの二階

Wrinner Notes Products 2020




夏旅2016 Vol.3 ハピネス :: 2016/11/19(Sat)





厳論「ワイキキに限らず物価が日本以上に高かったし、ホノルルは家賃も高いそうな」
ムシ「トランプが勝ったのはそんな時代の雰囲気があったんだと感じたね」
厳論「デジカメのデータから三本アップした」
ムシ「あなたへのオススメ動画として自分のヤツが出てくるのはどうにかならんかね・・」


  1. 拓郎ノート

つま恋'75シリーズ :: 2016/11/13(Sun)



厳論「とりあえず明日からハワイへ行ってくるのでつま恋'75シリーズとふたりの部屋シリーズもアップした」
ムシ「数えるとLIVE2016を観てから一日、一本ペースです」
厳論「宮崎駿もビックリでしょう」

  1. 拓郎ノート

LIVE 2016 Takuro Yoshida Memorial Short Film ~ あとがき :: 2016/11/13(Sun)



厳論「ひとまずショートフィルム編が完成した」
ムシ「ユーチューブで面白いのは世界のどの地域で再生されたのかも分るしくみになってる」
厳論「インドネシアやブラジルでも見た人がいたね」
ムシ「世界は繋がっているってことさ」

  1. 拓郎ノート

LIVE 2016 Takuro Yoshida Memorial Short Film ~ あとがき :: 2016/10/22(Sat)

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LIVE 2016 大宮ソニックを観てから、二週間で11本のショートフィルムをアップした

再生回数は一夜で数百回を超えたものもあれば二桁どまりもある

今回のコンサートに行けなかった人たちに雰囲気だけでもおすそ分けできたらと思う

(後半Vol.6~のフィルムはFC2動画で検索すれば出てきますので、どうぞご自由に)


最近、ご同好のブログでディランの「血の轍」について拓郎が語るラジオ音源がアップされていた

75.2.25 たくろうのANN ・ Dylan「血の轍」review

曰く「プラネットウエイブス」で受けたような刺激をそれほどには感じなかったという・・・

レコードやラジオから流れてくる曲に刺激を受けて生ギターをかき鳴らし

見よう見まねで詩を書いて自作曲を作ったり唄ったりという、青春の日々を思い出した

ある者はタバコを咥え、ある者はバイクに跨り、ナンパな奴らは女子高生に声もかけられずに
ピンク映画館のオールナイト三本立てにもぐりこんだ

LIVE 2016 を観て久しぶりに何かに熱中するという刺激を受けたのは間違いない


当時、♪ 越えていけそこを、超えていけ~ の何パーセントかはディランが占めていたことだろう

そのディランに別れを告げた拓郎は、岡本おさみとも決別し、秋には家族の絆を断ち切って長い旅に出ていった

それからずっと、吉田拓郎という看板を一度も下ろさず、一人で戦い続け

今日までそして明日からと、唄の通りに生き抜いてみせてくれた

謝々!

  1. 拓郎ノート

LIVE 2016 Takur Yoshida メモリアル ショート フィルム Vol.1 ~ Vol.5  :: 2016/10/15(Sat)





すぐにあいまいになってしまう記憶をイメージとしてショートフィルムに残してみようと思った

Vol.2 美代ちゃん'75(ロングバージョン)をアップした後

ディランのノーベル文学賞受賞という嬉しいニュースが飛び込んできたので

急遽こじつけで、シリーズにVol.3 Like A Rolling Stone & Moreをインサートした

何回で終わるか決めないでスタートしたが最後はシチズンCMで使われた「人生を語らず」を

取り上げようと決めていた

完成度に対する課題は画質ですな、どうも色相調整が思い通りにいかない

動画再生回数は1000回を超えると、一応OKらしい・・ 先はまだ長い

>>続きを読む

  1. 拓郎ノート

つま恋’85 :: 2016/10/09(Sun)

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サラリーマンになって数年、気楽に時間をやり繰り出来ない不条理と戦い

与えられた権利も行使できない不自由さに苛立っていた

ものごとには最初と最後がある、そんなキャッチコピーが風に舞っていた

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結果、「つま’85」を見終えてから、「鈴鹿8耐」をハシゴするという強行プランとなった

逆輸入車のスズキGSX1100S(カタナ)は高速道路をペガサスのように疾走した

おかげでケニー・ロバーツとワイン・ガードナーとの名勝負を観戦することができた

(ケニーの走りはまさに神業だったね、個人的にはモリワキの宮城&八代ペアとかヨシムラの辻本を応援していたが)

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そうそう、つま恋では夜明け近く、ステージ脇から伸びているロープの警備の緩いところから

PA裏側の関係者専用の仮設楽屋エリアに潜り込んだ

パイプイスが並び、テーブルの上にはリポDの空き瓶が散乱していた

出演を終えたかまやつひろしさんがイスに座ってステージに見入っている様子が印象的だったっけ

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  1. 拓郎ノート

セイ!ヤング'78(前編) 吉田拓郎 :: 2016/10/05(Wed)





通勤に朝晩、電車に一時間ずつ揺られている

その間、i-podで素材の音源を聞きながらバーチャルで編集作業を行なう

そうして出来上がったイメージをつなぎ言わせて

せいぜいが10数分のショートフィルムが完成する

孤独でタフな作業だ、しかし誰にも迷惑はかけていない(はず)

  1. 拓郎ノート

セブンスターショー'76 吉田拓郎 Opening & Zapp's Collection :: 2016/10/03(Mon)





TBSサンデースペシャル セブンスター・ショー 

企画・演出 : 久世光彦

放送期間 : 1976年 2月15日 ~ 3月28日
7人(組)の歌手によるワンマンショー、7週に渡ってTBS系列より全国放送された。

出演者 :
沢田研二(2月15日)、森進一(2月22日)、西城秀樹(2月29日)、布施明(3月7日)、かまやつひろし&荒井由実(3月14日)、五木ひろし(3月21日)、吉田拓郎(3月28日) 

収録日程 :
3月28日放送の吉田拓郎リサイタルはTBSのGスタジオにて3月19(金)と20日(土)の2日間で219分のVTRが収録され、90分番組に編集された。
同時期に2番目に大きいCスタジオで撮影されていたのは浅田美代子が出演する水曜劇場「花吹雪はしご一家」、浅田美代子がGスタジオの見学に来たのは収録2日目の3月20日(土)、「三軒目の店ごと」の演奏場面でスタジオ脇のモニタ付近に確認できる(らしい)。

収録曲目 :
1.春だったね、2.襟裳岬、3.まにあうかもしれない、4.知識、5.ガラスの言葉、6.花嫁になる君に、7.結婚しようよ、8.風になりたい(川村ゆうこ)、9.寒い国から来た手紙、10.三軒目の店ごと、11.蒼い夏、12.祭りのあと、13.ひらひら、14.僕の唄はサヨナラだけ、15.落陽

その他 :
視聴率的には伸び悩む結果になったが、その後のTBS大ヒット番組「ザ・ベストテン」等のスタジオセット演出に多大なる影響を与えたとされる番組。

岡本おさみさん、松原正樹さん、久世光彦さんに捧ぐ


Many Thanks 拓郎大全集、Miyodas,Wikipedia, FC2動画

  1. 拓郎ノート

オールナイトニッポン 特別編 つま恋’75(前夜) 吉田拓郎&かぐや姫 :: 2016/10/02(Sun)





せっかくのシルバーウイークなのに天気がいまひとつ

外で遊べないなら、家のなかでお絵かきとか積み木でも・・・

子供じゃん、まるで。

  1. 拓郎ノート

つま恋'75  吉田拓郎 1st Stage :: 2016/10/01(Sat)


つま恋'75  吉田拓郎 2nd Stage :: 2016/09/29(Thu)


つま恋'75  吉田拓郎 Final Stage :: 2016/09/28(Wed)


Live'79 TAKURO YOSHIDA (グラフィックス) :: 2016/09/19(Mon)

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手持ちの情報とかを自由に共有できるウエブ環境があればいいんですけど・・・

  1. 拓郎ノート

「春だったね」 原画展2015   (画・江口寿史 原作・Hiroyaさん) :: 2015/09/07(Mon)

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何年か前に、Hiroyaさんのブログで「伽草子を聴いた日」という自伝的作品を見つけた

拓郎が時代の中心だった頃の都会っ子たちがいきいきと描かれていた

その作品をベースにして1973~1975頃を再構築してみたいと思った

たたき台を送って打診してみたが、帰ってきた返事は

自分の世界を壊されたくないというようなことだった

なので、表紙だけアップしますが、中身はお蔵入りとなりました、ちゃんちゃん。

>>続きを読む

  1. 拓郎ノート

後藤由多加の金沢事件 1973 :: 2013/09/16(Mon)

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まったく身の細るような半月間だった。拓郎自身はもとより我々にとっては、基本的な人権とか名誉とか生活権にかかわる問題なのに、どうして警察は、東京でもっとちゃんとした捜査もせずに、あんなにも安易な形で逮捕したり、拘束したりするのであろうか。
それを思うと警察がまったく信じられないばかりか、味方であるはずの弁護士さえ信用できず、疑心暗鬼でスタッフは全員、すっかり食欲不振に陥ってしまったし、電話の鳴る音にもドキっとするような毎日であった。
拓郎に面会したくても、一々その度に検察庁に行って許可を貰わねばならないといった具合で、それもままならず、拓郎もすっかり消耗してしまい、時として「もう起訴されても何でもいいから、早く留置場から出たい」と口走ったりもする。そんな我々の不安に追い討ちをかけるように、マスコミは興味本位に我々を追いかけてくる。
これまで最も信頼できると思っていた大新聞までもが、まったく警察発表を鵜呑みにしただけの的外れな報道しかしてくれない。我々は本当に、今にも挫けそうになるのを土俵際で辛うじて踏ん張っているという状態だった。
そんな僕らの支えになってくれたのがCBSソニーの販売促進部の松尾次長だった。
あの時、我々を支援し、激励してくださった方々には、感謝しきれないほど嬉しかったと同時に、今もって警察や一部のマスコミに対する憤りは消えないし、この怒りをどこに持っていったらいいのか歯がゆい思いがしてしようがない。


  1. 拓郎ノート

『偉大なる復活』 菅野ヘッケル :: 2013/09/06(Fri)

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◩◩:大学を卒業された1970年にCBS/ソニーに入社されたということですけど。やっぱりソニーにディランがいたからですか。

菅野:うん。高校一年の秋にラジオでPPMで知ってた「風に吹かれて」のオリジナルを聴いて「何ちゅー声だ」と、すごく興味持って、それ以来、もうずっとだから。大学のときに、就職のこと考えるわけじゃない? 堅い方向に進むべきか?とか。

◩◩:面接のときも、やっぱりディランの話ですよね。

菅野:何で受けたかって言われたら「ディランやりたいから受けた」って言うしかないもんね。今の会長が面接官だったんだけど、若造が延々と「ディランやらせろ!」っていうことを言ったわけで(笑)。
たまたま若い会社で、社員も少ないし、「ディランやりたい」なんて自分から言うヤツがいるんならってことで採ってくれたんだよね。初めて実際に担当したのは70年の『セルフ・ポートレート』,微妙なアルバムだね (笑)。

◩◩:実際にディランを見に、アメリカに行かれたのは?

菅野:1974年にザ・バンドと一緒にやった8年振りのコンサートツアー。ボクは初日から行きたかったからシカゴから行ったんだけどね。あの頃はディランがライヴをやるなんてことはもう無いだろうと。そういうのがファンの間での感じだった訳で。これはもう、本当に最後になる、初めてにして最後になるから絶対に行こうと。まだ会社員だった訳だけど、会社1ヶ月間休んで。初日のシカゴは、氷点下20度、ウィンディ・シティって別名があるくらいだから、風がやっぱりすごいんだ。最初に聞いてた場所が、結構、南の方にある場所だったんですよ。でも、行ってみたら、全然そんな雰囲気がない。そこら辺にいた人に訊いてみたら、「それはシカゴ・スタジアムの間違いだ」って(笑)。慌てて、そっち向かってさ。シカゴ・スタジアムに着いたら、運良くディランとザ・バンドの連中が楽屋入りする光景にぶつかって。それを目撃したときは、やっぱりすごい感激したね・・・。バスから降りてきて、ディランが歩いて楽屋に入って行くんだよ。こっちは茫然と見てるしかないんだけど(笑)。しばらくしたらサウンドチェックの音が中から少し漏れてきて。ドアに耳押しつけて聴いてたんだ。そのときは雪は降ってなかったんだけど、こっちはすごい興奮してるからさ。でもやっぱり顔が痛いんだよね、ものすごく寒かった。

◩◩:その一ヶ月間は、ほとんどディランに付いて回ったわけですか?

菅野:シカゴのあと、ボストン、フィラデルフィア、ニューヨーク。ずっと見てた。当時は昼夜やってたりするんだよね。まだそういう時代だったんだよ。昼2時間やって、また夜は夜で2時間くらいやって。8回くらいかな。あの時のツアーってほとんど曲が変わんないから。ほんの1~2曲変える程度。ロサンゼルスは日本からも吉田拓郎とか音楽評論家の小倉エージなんかが観に来てたけど。まだ1ドルは360円だし、日本からわざわざ行くのは、当時はまだ少なかったと思うね。

  1. 拓郎ノート

アメリカを乗り越えて行けるようなことをしたいとみんなが思っていた 後藤由多加 :: 2013/09/02(Mon)

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私は、70年安保という時代に青春時代を送りました。学生のクラブ活動資金を集めるためにダンスホールを借り、バンドを入れてダンスパーティーで収益を上げるのが主流でした。1970年を過ぎると、自分たちが好きなフォークグループやシンガーソングライターを呼んでコンサートをやる時代になりました。その頃は欧米でもビートルズやボブ・ディランなどを筆頭にした音楽が台頭していて、日本でもメッセージフォークが増えてた時代だったんです。
はじめ僕はジャズ系のバンドをやっていましたが、当時付き合っていた女の子が“フォーククルセイダース”のファンで、それがきっかけでフォークのバンドを始めました。しかしプロとしてやっていくだけの才能がないことを感じて、舞台構成やステージの台本を書いたり、プロモーターのようなことを学生の頃には始めていました。
そのような中で、吉田拓郎と知り合いました。1970年代前半の拓郎の存在感はもの凄くて、僕が最初にこの世界で仕事をしたいと思ったのも、「イメージの詩」がきっかけでした。
「イメージの詩」の1小節目に、♪これこそはと信じられるものがこの世にあるだろうか~という歌詞があります。こんなに言葉をはっきりと歌にする拓郎は、きっとこの音楽で世界を席巻するだろうと思ったんです。当時21歳くらいだった僕は、アマチュアからプロとして仕事をしていく思いが固まった時期でもありました。

1969年に、NY郊外のウッドストックで、40万人を超える史上最大の音楽イベントが開かれました。僕はこのフェスティバルには参加していませんが、1974年にウッドストックを訪れました。当時僕は吉田拓郎のマネジメントをしていて、ボブ・ディランのバックバンドで演奏をしていたザ・バンドと吉田拓郎で一緒にコンサートツアーとレコーディングをやりたいと思っていました。そのザ・バンドやボブ・ディランのマネジメントをやっていたアルバート・グロスマンがウッドストックに住んでいたんです。そこで僕は無謀にも、彼を訪ねてウッドストックへ行きました。吉田拓郎とザ・バンドの共演は叶いませんでしたが、史上最大の音楽イベントが行われた地で僕は、色々なことを学びました。

1975年に静岡県で開催された吉田拓郎とかぐや姫の「コンサートインつま恋」は、地域住民や行政、PTA、警察などから、ことごとく反対されました。アメリカでさえ最初は場所が見つからずに、ウッドストックフェスティバルの開催地は個人の農場でした。つま恋コンサートの最終的な開催地も、ヤマハの川上源一さんが賛同して自分の持っているリゾート地を貸そうと言ってくださった。場所を借りたあと、チケットを6万枚ほど売ったのですが、売ったあとで警察から中止勧告が出たりもしました。これも川上源一さんが何とかしてくれました。音楽を理解してくれる人の助けがあったからこそ、無事開催することができたんです。
ウッドストックフェスティバルも、カウンターカルチャーという60~70年代という時代が持っていた、ラブ&ピース文化に影響を受けた若者たちが、音楽を通じて時代を変えようというエネルギーが原点になっています。この精神性はすごく重要です。今の人たちからすればアメリカに対する憧れは薄いかもしれませんが、当時は1ドル360円の時代で、ニューヨークに行きたくても直行便などありません。そんな時代もあってアメリカの文化に対する憧れが強く、アメリカを乗り越えて行けるようなことをしたいとみんなが思っていました。

「音楽文化・産業論 2008 I」 第12回 インディーズ創世記 2008/07/05より 抄訳

  1. 拓郎ノート

前田仁と齋藤哲夫のラジオ対談 (2006/09/05、ラジオ局、番組名不詳) :: 2013/08/12(Mon)

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齋藤:最初さ、(当時、所属していた)URCレコードで何を聴いて俺に声かけてきたの?

前田:初めて齋藤哲夫を観たのは、第三回中津川フォークジャンボリーで、その時に何か凄い歌を唄う人がいると思ったわけよ。その前に、吉田拓郎がずっと自分のリサイタルとかで哲夫の「されど私の人生」を唄っていたわけ。エレックレコードから出したライブアルバム『ともだち』にも齋藤哲夫「されど私の人生」っていう歌を今日も唄います。この歌は凄く良い歌で。自分でシングル盤を買って何度も擦り切れるまで聴いて、そろそろ新しいのを齋藤さん、僕に一枚くれないだろうか、みたいなジョーク言いながら演ってるわけじゃない。それでその時に、齋藤哲夫って凄い歌、唄ってんだよなとか思いながら、あんな歌を唄うんだから、神様の岡林なんか超えちゃった神様の大将なんじゃないかくらいに思っていた訳よ。それから第三回中津川フォークジャンボリーで本物を観ちゃって、ステージに上がると凄い歌、唄ってるし、よくあんな声が出るなっていう。その辺から齋藤哲夫にはずっと興味があって。それで俺のところに、「哲夫を仁さん、やってくれませんかね」って来たのは、岩井 宏(故人)だったような気がする。

齋藤:本当に? 俺のなかでは繋がらないけどね。

前田:とにかく若き哲学者と呼ばれて「悩み多き者よ」とか「されど私の人生」でしょ、これは凄いのが来るぞ、手に負えるかなと思った。だけど、こんにちは~齋藤で~すって来てくれた時に、大丈夫かな、子供っぽいなって凄く思った。

齋藤:だから出来たんじゃない。

前田:だけど本当にさ、ハラハラして、瀬尾一三はURCのアーティストだった時期もあるから面識はあったんだろうけれど、瀬尾君にしても哲夫のことは弟分か息子みたいに守らなくてはっていう感じだった。哲夫って少し、年上には可愛がられていたよね。

齋藤:瀬尾ちゃんもね「「悩み多き者よ」には衝撃を受けたって聞かされたことがあるんですよ。俺のなかでは、6/8拍子に文語調の感じがはまって、ある種やったーっていう感じでしたもんね。

前田:あれらの曲を書いたのは高校生じゃないか、キミ。

齋藤:そうそう。

前田:どこの学校の先生があんな言葉を教えたり、どこの本で読んだのかとか、不思議でならなかった。

齋藤:たとえば「されど私の人生」ってのはね、柴田翔さん(小説家)の「されどわれらが日々」という60年安保を書いた作品の、本当にかっこいい、言葉がいいなっていうところから入っていっちゃうわけよ。メロデイーはまさに当時、聴いていたビートルズの「レット・イット・ビー」だね。

前田:言っちゃって、いいの? 俺のところに来た時には、何かビートルズを背負ってきた感じがあったもんな。

齋藤:中学時代からビートルズ演りたかったし、バンドも何度か組んだけれど、知識もテクニックも無くてバンドは終わって、結局、ボブ・ディランとビートルズの影響大だよね。初期はディランぽいとこもあるし、詞に関してはいかに乗せるかっていう作業しかなくて、あとはやっぱりメッセージかな。仁さんに呼ばれた23歳の頃はまだつっぱってて、最初は六本木の喫茶店で会った。で、CBSソニーというメジャーで、一発でかいのを作ろうと意気込んで、それが「バイバイ・グッドバイ・サラバイ」なんだけど。

前田:齋藤哲夫がまさか、あんなポップな歌を作るとは期待はしていなかった。どちらかというと凄いメッセージソングを作る男と仕事をしたいという気持ちがあったと思う。一番、僕が齋藤哲夫に注文つけたのが、頼むから唄えるキーで書いて来いっていう、よっぽど喉の調子が良い時でないと出ないんだもんな。これをどう料理してもらおうかな、誰が料理するんだろうかということに俺は悩んだね。それでこれは瀬尾君しかないなと思って頼みに行った。瀬尾君とは「赤い鳥」で東京に来て、色々やっている頃に知り合いになった。その頃からポップな感じや洋楽的なことが分かる数少ない、当時としては貴重なサウンドクリエータだと思っていた。で、実は齋藤哲夫やるんだけど、と頼みにいったら瀬尾が「面白いじゃん、やろうよ」と言ってくれた。

齋藤:全然変わったでしょ「バイバイ・グッドバイ・サラバイ」を持っていった時どうだった?

前田:こういう歌、唄うんかいな、日の丸は旗々ととかさ、斧を持て石を撃つが如くとか、何を言ってたんだろう、この人と。

齋藤:西岡たかしさんに言われたんだけどさ、URC時代はメッセージフォークだなんて言われてね、今度はCBSソニー行ってビートルズみたいな感じのポップやって自分のなかでまとめるのが、未だにできなくて困ってるんですよって言ったらさ、「いやあ、キミは勇気がある」と。あっそういう感覚で捉えられるのかと。あんな重たいの唄ってたのが ♪バイバイ・グッドバイ・サラバイってさ、その心境って、ある意味じゃサギ師みたいなもんじゃない。それが80年に入って ♪今のキミはピカピカに光って~に入っていっちゃうんだもん。完全な裏切り行為みたいなさ。宮崎美子さんのCMのおかげで最大のヒットにはなったけどね。

前田:僕はあの時、他のレコード会社に行っていて、ずいぶん哲夫も変わったなと、何かを捨てやがったなと感じた。ただ哲夫が人の力を借りたりコマーシャルの力を借りたりして世の中に出て行くってのはどうなんだろうなってのは感じだ。

齋藤:もう、参りましたよ。若い時ってのは走っちゃうわけじゃん、後になって恥ずかしい思いもしたけど、若い時ってのはやっぱり分からないもんですよ。

前田:最初はガイドボーカルみたいに哲夫がギター弾きながらミュージシャン全員に聴かせてコードとか進行を決めてレコーディングしてたよね。

哲夫:URCの時は一発録りなんだよね。

前田:URCの時代って4チャンネルなんて無かったからさ、多分ね2チャンネルでバンドも歌も「せーの」でやるしかない時代なの。そういう意味では失敗が許されない。
哲夫:URCの時の一曲目が「すばらしい人生」って6分超の曲なんだけど、最後にコーラスが来るわけ、鈴木慶一と二人で12弦ギターとピアノとボーカル録って、もう1チャンネルでコーラスのところまでずっと待っていて、その場面に来たら二人でハモるという。

前田:あのね、もう1チャンネルじゃないの、とりあえずステレオだから2チャンネルの中に一回ぶち込むの。今度はそれを流しながら一回オーバーダビングしているはずなの。2チャンネルのテープの時はそうなの。繋ぐとかも出来なかったし、だから相当、音質もね、ジャリジョリがね悪くなっているはず。ただ哲夫と「バイバイ・・」やる時には8チャンネルとか16チャンネルとかが走り出してた時代だから、哲夫のボーカルチャンネルも2つから3つくらい残しておいて、2つくらいをひとつにまとめてとかやれるようになったから、あの頃からある意味では緊張感のないレコーディングになったかも知れないけれど、キチっと納得いくベストなものを作れた時代の走りかもしれない。

齋藤:今の若い人たちって、メッセージもふくめて日本語をうまく乗せてしまう力量を持つようになったということは思う。70年代って8ビートに日本語を乗せるっていうなかで随分苦労していたっていうのがあって、はっぴいえんどもそうだけど、今、自分で振り返ると、70年当時というのは何かその作業をずっとしてきたんじゃないかと思う。

  1. 拓郎ノート

イメージの詩 :: 2013/08/10(Sat)

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↓ クリック(サギかもしれないので要注意だよーー)
Bury me under the Weeping Willow Tree

フィンガーピッキング奏法で有名なカーターファミリーさんですね。

「イメージの詩」の元ネタといわれれば、う~ん、そうかもしんない、ウッフッフッ。

  1. 拓郎ノート

拓郎が業田良家に与えた偉大なる影響 文藝ポスト/小学館 2002夏号 :: 2013/02/09(Sat)

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